あの日、教壇に出川哲朗を見た。

長瀬さんサムネ

小学校低学年でローマ字の存在を知った時には、なるほど、これを使ってアップルをAPPURUと書けば英語になるのだなと甚く感心したものであるが、それからやや暫くしてどうやらそういうことではないらしいと判明した時の絶望、あれこそが、私の英語嫌いの始まりだったのかもしれない。

中学時代、人前で話すことを苦手としていた私にとって、英語の授業は最も憂鬱な時間であった。母国語ですら自信を持って発言できないのに、英語で受け答えするなど恐怖以外の何物でもない。そんな中で繰り出される先生からの容赦ないHow are you ? に対し、合言葉を答えなければ殺される的な心境で唇を震わせながらアイムファインセンキュー、外の天気がsunnyだろうとcloudyだろうと私の心はいつもレイニーブルーであった。

中学英語で早々に躓いた私は高校で更に躓き、躓いて転んで仰向けになり胸の前で手を組んだ。南無。もはや来世に期待するしかない。心を無にして黒板を写経し、リスニングという名のお経を右から左へ聞き流し、SVOC文型だかVIO脱毛だかよくわからないまま日々を過ごした。

そんな具合に英語を大の苦手としてきた私であるが、高校の英語の授業で一つ、印象に残っている出来事がある。

英語の担当だったK先生は、英語教師にしては堅物というか、感情をあまり表現しない淡々とした感じの男性の先生であった。厳しい面もあったが、ちょっとした雑談や時々垣間見える達観した考え方が面白く、授業内容はさっぱりだった私も、K先生の授業自体には割合好感を持って臨んでいたところがあった。

そんなK先生の授業に、ALT(外国語指導助手)が派遣されてきた時のことである。

ALTの先生は明るい感じの女性で、日本語はほとんど話せない人だった。となれば無論、K先生は英語で会話するのだが、授業の進め方を確認し合ったり、生徒の発言を補足したりする中で、ALTの先生が「?」という表情で聞き返すことがあった。K先生の英語がうまく通じなかったのである。そういう場面が何度かあり、私はそのたびハラハラして仕方がなかった。大勢の前でこんな「失敗」をするなんて、自分だったら失神しかねない。しかしK先生は失神するどころか、まるで動じる様子はなかった。なんてことない顔で、発音を言い直したり、言葉を変えたり、場合によっては身振り手振りを交えて説明した。そうすることでALTの先生も「OK!」とその都度理解して、滞りなく授業は進んで行った。

授業が終わった後、クラスでは「K先生の英語、通じてなかったよね」と笑っている人もいた。しかし、私はむしろ感動していた。

「言い直したりしてもいいんだ。」

それまで私は、少しでも間違えば英語として「失敗」なのだと思っていた。「失敗」するのは恥ずかしい。必死に英語っぽい発音を試みて、もし間違っていようものなら人生が終わるくらい恥ずかしい。しかしK先生は、相手から聞き返されたり、何度も言い直したりすることを恥じているようには見えなかった。それは「失敗」ではなく、伝え合うための、当たり前のやりとりなのだという風に見えた。そんなK先生の堂々とした姿を、かっこいいとさえ思った。あの日、私は英語が「教科」である前に「言語」なのだということを、初めて目の当たりにしたのである。

 

時は流れ、十数年後。あるものが世間で大きな話題となり、私はあの日のK先生のことを再度、強く思い起こすこととなった。そのあるものとは、「出川イングリッシュ」である。

「世界の果てまでイッテQ!」という番組の中で、出川哲朗が海外に行き、番組から与えられたミッションをクリアしていくというコーナーがあった。そのミッションをクリアするためには現地の人に話を聞く必要があるのだが、出川哲朗の英語力は低い。かなり低い。英単語や文法をほとんど知らないし、発音もカタカナそのままという具合である(全くもって私が言えたことではない)。しかし、出川哲朗はそんなことなど物ともせず、明るいキャラクターと積極性を武器に、これはもはや英語なのだろうかというような独特の言い回しで現地の人にぐいぐい話しかけるのである。その「出川イングリッシュ」のハチャメチャ具合が面白いのは勿論のこと、多くの日本人が驚かされたのは、それが何だかんだで相手に伝わっているという点である。懸命に伝えようする出川哲朗に、相手も耳を傾け、協力してくれるのだ。

そんな出川哲朗の姿を見た時、私はあの日のK先生に対する感動と同じ感動を覚えた。K先生が教室で私たちに体現したことは、出川哲朗がテレビを通して日本人に体現したことと、限りなく近いように思った。つまり、英語というのは知識ではなく、コミュニケーションツールだということである。伝えるという目的があり、その目的のために聞き返したり、言い直したりすることは、何ら恥ずかしいことではない。身振り手振りを使ったっていい。会話の相手は英語力を評価する試験官ではないし、完璧な発音でしか反応しないロボットでもないのである。大切なのは英語を流暢に喋ることではなく、伝わるかどうか、なのだ。

英単語も文法もほとんど知らない出川哲朗と、英語教師であり、恐らくザリガニに鼻を挟まれても動じないであろうクールなK先生を同列に語っては、K先生も両手を挙げてワイ?であろうから失礼にあたってはヤバいよヤバいよだが、どんなにお前はバカか?と言われようとも、あの日の教室を思い出す時、私の中でK先生と出川哲朗が重なる。K先生はあの日、英語がリアルガチなコミュニケーションであることを、身をもって示してくれたのである。

 

そういうわけで、私の英語に対する恐怖心は学生時代と比べて大分払拭されたように思う。いつか海外旅行をする時の為に日常会話くらいは勉強しておこうかなという気持ちも湧いてきたし、少し前に日本酒バーで旅行中のアメリカ人と隣になった際には思い切って会話してみた。「オオドオリパーク イズ ベリービューティフル」と言ったら、「Thank you!」と言っていた。彼が大通公園で焼きとうもろこしを食べられたとしたら、それはK先生と出川哲朗のおかげである。

2020年から小学校でも英語が必修化された。勿論、教科として正しい文法や発音を教えることは重要だが、コミュニケーションの側面においては必ずしも完璧である必要はないということも、英語を学び始める段階で知る機会があって良いのではないか思う。ALTの先生が来た時には是非、教科書に載っていない、リスニングCDでは聞けない、完璧ではない英会話を見せてあげて欲しい。何度も言い直したり、身振り手振りを使ったり、あらゆる手段を用いて「伝える」、そんな英語を目撃することも、英語教育の一環になりうるのではないだろうか。

 

(サムネデザイン:コスモオナン)

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長瀬
雪深き北の大地からお送りいたします。「酒を飲み過ぎたおかげで天皇陛下からレスを頂戴した話」「KAZUYAを忘れない」「ウェディングドレスを試着したら原始時代が始まった」等、noteにエッセイを書いています。