父への怒りは、そっとしまっとけい

若いころ、イギリスのロックバンドOasisを好きな友人がいて、「Don’t Look Back In Anger」という曲をよく歌わされた。当時は「ドント・ルック・バック・イン・アンガーって言いにくいなあ。英語の曲って歌いにくいなあ」としか思っていなかった。だが、最近感じ方が変わった。

タイトルの「Don’t Look Back In Anger」は「怒りながら振り返るな」「過ぎたことでカッとなるな」といった意味で訳されている。改めて聴くと「せやな……」と一人で頷くことが多くなった。

生きていれば、ささいな苛立ちは誰にだってある。時間をともにしていれば、意見が合わないこともある。言いたいことは言ったほうがいい。でも、感情的になると、どれだけ小さくても関係に傷がついてしまう。たとえ身内でも、それが原因で疎遠になることもあるだろう。

父、定年を迎える

私の父は70歳になる。

いまだに仕事をしていたが、ついに定年を迎える。12月24日が最終出勤日だった。

私と兄、そして母を経済的に支えてくれた。社会人になるとわかるそのすごさ。自分が同じことをやれと言われても、まだ自信はない。

ふと振り返ると、いままで誕生日すらしっかりとお祝いをしたことがなかった。この機会にと、私はかなり前からプレゼントを計画していた。 高級時計だ。

私の中で、定年を迎える父に高級時計を贈ることには意味がある。

いまから10年前、私のお財布では高級時計は買えなかった。いまから10年後は買えるかもしれないが、父は80になり、そのとき元気かどうかはわからない。70歳を迎えた現在、まだまだ体は元気そうな父。息子の時計を身に着けて、ちょっくら格好良く外出してほしい。時計がそのきっかけになるように、いま高級時計を贈りたかったのだ。

12月、忙しくて体調を崩す

例年のごとく12月は忙しく、一か月が一週間のようなスピード感。ありがたいことに、クリスマスのイルミネーションを妬ましく思う暇すらなかった。やることは多く、移動も増える。そして寒さは本格化し、体力を奪われた。

疲れが溜まっていたのか、12月半ば、一度発熱した。インフルエンザや新型コロナウイルスの検査を行ったが、幸い陰性と判明。 全力で回復に努め、溜まった仕事をやりくりする日々が続く。忙しさに振り回されて、自然と心の余裕はなくなっていった。

そんなときに、父親から電話がかかってくる。近況を報告し、体調を崩したことも伝えた。

収束に向かいつつあった新型コロナウイルスだが、まだまだ安心はできない。父はちょうどそのとき、新たに“オミクロン株”の脅威が迫るというニュースを見ていたようだ。そして、一言物申された。

「このご時世にあんまりうろちょろするもんじゃない。いつも忙しそうにしているが、そんな仕事は辞めたらどうだ」

仕事で走り回る私を、心配してくれたのであろう。

でも、余計なお世話だ。

もう少し優しい言い方があるだろう。こちらも遊んでいるわけではない。コロナにだって気をつけている。仕事は体が資本だし、風邪を引いたら仕事相手にも迷惑がかかる。 そんなこと言われなくてもわかってる。好きで風邪をひいたわけではない。どうしてそういう言い方しかできないんだ。とりあえずは飲み込んでやる。だが、許さない。一生顔を合わせなくても、会話すらしなくても平気かもしれない。絶対に許してやるもんか。

適当に受け流して電話を切ると、脳内を罵詈雑言が埋め尽くした。

父、クリスマスイブが最終出勤日

そして近づく12月24日。罵詈雑言は、まだ私の脳内に残っていた。

「いちいち買うべきか……?」

私の心は、くだらない怒りで満ちていた。やり取りをして以降、互いに会話はない。私は病み上がりで体力もなく、忙しくて時間もない。なんならお金もそんなにない。プレゼントしても「こんな高価なモノを……」とまた愚痴を言われるかもしれない。買わない理由を探し始めていた。

だけど、いま高級時計を買うことには、意味がある。このタイミングを失ったら、私は父にプレゼントを贈ることはないかもしれない。しかし、まだ怒りは残る。答えは見つからないまま、時間だけが過ぎる。考えることに疲れてきた。

「とりあえず行こう」

後悔はしたくない。買うか買わないかは後で決めればいい。12月23日、私は仕事を終えた足で銀座へ向かった。

不安とワクワク…「喜んでほしい」

歴史のある時計塔が目印の厳かな商業施設。そして建物内にはきらびやかな時計ばかり。緊張しつつも、来たからには時計を見る。

時計のショーケースを眺めながら、どれが似合うだろうか、どんなシチュエーションで着けるだろうか、どんな服装に合うだろうか、考えを巡らせる。サプライズのプレゼントを贈る不安とワクワクが、少しだけ心の中に広がっていった。

「父の定年祝いに時計を考えているんですが、何を買えばいいかわからなくて」

そう伝えると、店員さんも真剣に考えてくれた。父の腕の太さはどれくらいだろう。一生懸命考えたこのプレゼントを「喜んでほしい」という気持ちが大きくなる。

そして、自分の給料一か月分くらいになる高級時計を購入した。

父の反応を見たら

時計を買うとそのまま実家へ。父との間には微妙なわだかまりがあり、会話は少ない。

躊躇しすぎて、父の最終出勤日である12月24日に渡すことはできなかったが、翌朝、私が家を出るときにぶっきらぼうに渡すことができた。父と、ついでに母も喜んでくれた。時計というより、私の行動に喜んでいるようだった。

「ありがとうね」

父から一言もらうと、怒りは喜びに変わった。私は照れながら、店員さんから聞きかじったうんちくをそのまま語る。

「機械式もいいけど、電池式のほうが精度はいいんだ。金属ベルトなら、夏の服装でもなんでも相性はいいんだよ」

気がつくと、いつもの関係に戻ることができた。

買ってよかった。怒りでタイミングを失わなくて、本当によかった。

せめて、そのときくらいはさ

父への怒りは消滅したわけではなく、今だって会話の中でカチンと来るときもある。でもプレゼントを買うそのときは、タイミングを失う後悔が嫌だった。足を動かした結果、プレゼントを贈りたいという気持ちが心を占めていった。

怒りの感情は強い。長い間、人の心を支配する。でも、日常を過ごす中で、たとえばプレゼントを買おうとしたとき、怒りの居場所は小さくなっている。私は「過ぎたことでカッとしていた」のだろう。

「Don’t Look Back In Anger」の最後の歌詞は「At least not today」(せめて、そのときくらいはさ)。そんなことを思ってみれば、また笑い合うことだってできるのだ。

(編集:中村洋太)