100年分の、道具だけが知っている物語

12月中旬、奥秩父への小旅行で見つけた骨董店に足を踏み入れた。

骨董店というと、財布に余裕のあるお客しか受け付けないなどの硬いイメージを持っていた。

しかし、美術館の近くにあるその店は、無料休憩所を兼ねており、地元の若いご夫婦も訪れていて親しみやすい雰囲気だ。

お店の女性が笑顔で迎え入れてくれて、お茶を一服。少しの間、骨董店の隣にある美術館について談笑。どうやら、この骨董店も美術館も先代の店主が建てたそうで、骨董店の方が歴史が古いらしい。

休憩所と骨董売り場を仕切っていたビニール地のカーテンを開くと、そこにはぎょっとするほど所狭しと骨董品が置かれていた。

膨大な数の漆の器、それを上回る数の絵柄が入った陶器、ガラスケースの中には刀や懐中時計、コイン、キセルなど。

奥に行くと、年季の入った槍や、さすまたのようなもの、火鉢、火縄銃、ガラスのランプ。うず高く積まれた古い書物、さらに奥に行けば古い数珠や無数の仏様……。

風もないのに、物たちが発する圧を感じる。空気が変わっていないのに、ゴクリと思わず息を呑む。

まるで、厳かな神社にいる気分になってくる。

いや、それよりももっと賑やかだ。年季の入った物たちの、人の耳には届かないささやき声が聞こえるような錯覚。

テレビ越しに見る漠然としたアンティークへの憧れを抱いていた自分は、実際の生活に使われていた骨董品を前に、静かに感動した。

器ひとつ、物ひとつに物語が宿っているのがわかる。

積み上げられた漆の椀は、模様や色合いからすべて祝いの席に使うものだろう。

きっと、民家の蔵に大切に保管されていた。

その朱漆の椀を手に取れば、見たことのない時代の風景が浮かぶ。

 

誰もが晴れ着を纏い、今とは違う厳粛な雰囲気で、今、自分が手に持つ器には立派な料理が盛り付けられている。

親族全員がそろって迎える、特別な日の残像。

まるで映画『サマーウォーズ』で描かれた大家族の、今はほぼ見られることのない集まりの場で、この器は使われていたのかもしれない。

 

古風だが決して飾り物ではないよ、と主張するように今にも輝き出しそうなランプを見る。

電気が使われる前、現役だったんだろうな。

 

「最近の人は、アンティークっていっても、50年ぐらい前の昭和レトロを感じるものが流行りだから売れないんですよねぇ。うちのは100年ものしかないから……」

 

30年足らずしか生きていない自分では口の中が一気に干からびそうな時間を、お店の人はさらりと語った。

 

自分は物書きだという自負のせいか、以前まであらゆる場所に物語のかけらが見える気がしていた。

ふと気を抜いて、世の中に流れる時間に歩調を合わせていたら、その「物語を見つける目」が曇ってしまったらしい。

メガネが曇ったら、もちろん拭かなければ。

そんな気持ちで、旅行をした。

 

秋と冬が交差して、紅葉には間に合わずとも、散る葉を見るのには間に合う時期に。

旅館の障子に、山間を優雅に枯れ葉が落ちていく影が写る。

平野では味わうことのない寒さが足にじゃれついて、自分の住む土地がどれほど暖かいか痛感した。

早朝に散歩した河原では、大小異なるすべての石に霜が降り、朝日を受けて川面と共にきらきらとすべてが輝いていた。

そんな中で、シーグラスならぬ「リバーグラス」とでも呼ぶべき、川の流れによって角が取れて丸くなったガラスがきらりと光る。

ひとつずつ集めながら、実は水晶なんじゃないかと思ってしまった。あまりにも綺麗で。

 

旅行前は、こういう自然こそが、もう一度目を覚まさせてくれると思っていた。

けれど、一番「物語を見つける目」をこじ開けたのは、この骨董屋での出来事だ。

 

物は、これほどまでに歴史を語るのか。

器を手に取れば、「これは誰が使っていたんだろう」という妄想が始まる。その欠けひとつ、ヒビひとつでさえ、言葉ではない声に変わっていく。

昔の人々が「つくもがみ」という、物に心が宿る神がいると信じたのも素直に納得。

一部が欠けてしまっていても、まだ「不要」ではない骨董たちを見ていると、鬼才の探究者・南方熊楠氏の言葉が思い出された。

かつて、戦争で必要な鉄を作るため、その燃料となる木材を求め、明治政府は鎮守の森伐採のために小さな神社を「不要」としたという。

 

それを止めたのが、南方熊楠氏だ。

和歌山の深い森に長く入り浸り、鋭い観察眼を光らせて、植物と動物二つの特徴を持つ「粘菌」を発見。それ以外にも多くの発見をした民間の研究者。

「世界に不要のものなし」

人生のすべてをかけて、世界をまっすぐに見つめた人の言葉だ。

鎮守の森が守ってきた生態系、虫の一匹、水の一滴、ひと一人、そのすべてが世界を作っているという言葉だろうと理解していたが、骨董として残る物たちもまた、その世界に当然含まれている。

そんな「当然」さえ、この場所に来るまで意識してこなかった。

 

自分は今、手元にある物を大切にできているだろうか。

これらが百年以上使えるように、大切にしていこう。

骨董店で、小さな皿を買った。

淡い水色で、もう足が欠けているので置くとぐらついてしまう、規格品ではありえない歪みを持った皿。

お店の人はその皿をみて、さらりと「明治」と言った。

手の中にある小皿は、百年の時を過ごす大先輩だ。

家に帰ってから、その小皿と真っ正面から向き合い、「これからよろしくお願いします」と呟いた。

道具、この単語を分けると「道の具え(そなえ)」になる。

持ち主となる人間が進む道の具えとなるように。

ものを、大切に。

小さな水色の皿は、声なき声で、使うたびにそう教えてくれる。

 

(編集:中村洋太)