「自分に期待し、応援してくれたサポーターのみなさんは、僕の一生の宝物です」
かつて日本代表としても活躍したプロサッカー選手の田中達也は、引退セレモニーで涙ながらにそう語った。Jリーグの全日程が終了する12月は、別れの季節でもある。浦和レッズとアルビレックス新潟でプレーした田中は今年、21年間の現役生活に幕を閉じた。
選手生命を脅かすほどの大怪我、そしてワールドカップメンバーからの落選。幾多の試練を乗り越えてきた彼を、約18年に渡り応援してきたサポーターがいる。埼玉県在住のひっつーさんと、その奥様のまひろさんだ。クラブ移籍を経ても田中を追いかけ続けたふたりに話を伺った。
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熱狂的なサポーターとワンダーボーイに心を奪われる
2002年の日韓ワールドカップ(以下W杯)を機にサッカーに興味を持ったふたりは、当時まひろさんの職場にいた浦和レッズサポーターの方から試合観戦に誘われた。
「2003年5月、お誘いを受けて夫婦で初めて埼玉スタジアムに観にいきました。バックスタンド(ピッチの側面に当たる席)で観戦していましたが、ゴール裏の熱狂的な浦和サポーターの迫力があまりにもすごくて、試合よりもゴール裏のサポーターばかりみていました」
そこから浦和レッズが好きになり、スタジアムへ通い詰めた。ふたりがサポーターとしてよりいっそう熱が入る大きなきっかけとなったのが、2003年11月のヤマザキナビスコカップ(現ルヴァンカップ)での優勝だ。その決勝戦で田中は1ゴール1アシストの大活躍。21歳以下の選手に贈られるニューヒーロー賞と大会MVPのダブル受賞という偉業をなし遂げた。この活躍により、以後田中は「ワンダーボーイ」の愛称で親しまれることになる。
「決勝戦はテレビで観戦していましたが『この選手すごい!』とその活躍に鳥肌が立ちました。そこから達也選手が大好きになり、現在に至ります」
まひろさんは嬉しそうに当時の話をしてくれた。やがてふたりはスタジアムで仲間の輪を広げ、熱烈なサポーターたちが集まるゴール裏で観戦するようになる。大声で応援歌を歌い、飛び跳ねる。これはゴール裏の特権だ。
W杯メンバーからの落選
多くのサッカー選手にとって、4年に一度のW杯は夢の舞台である。着実にステップアップしていた田中の活躍に、W杯出場を期待する声は高まっていた。だが2005年10月、そんな彼に悲劇が襲う。右足首脱臼骨折の大怪我を負ってしまったのだ。足首が本来ではあり得ない方向に曲がり、選手生命すら危ぶまれた。この大怪我により、2006年のドイツW杯出場は叶わなかった。それでも懸命なリハビリが実り、2006年7月に復帰する。そこから4年後の南アフリカW杯を目指すアジア予選では、日本代表の主力として戦い、日本代表は本大会出場を決めた。予選突破に貢献した田中は、今度こそW杯本大会のメンバー入りが確実視されていた。
しかし、メンバー発表の前年から小さな怪我を繰り返しコンディションが不安定だった影響か、結局2010年南アフリカW杯のメンバーにも入ることができなかった。落選を知ったひっつーさんとまひろさんは、ある行動に出る。
「いてもたってもいられなくて、浦和レッズの練習場までいきました。選出されたチームメートの阿部勇樹がたくさんのサポーターや記者から祝福されるなか、申し訳なさそうに達也選手が出てきて、まるで明と暗だった。落ち込んでいる達也選手の姿を見るとこっちも辛くて悔しくて。だから『オレたちがついているぞ!』と声をかけたんです。そうしたら、『ありがとうございます』と返してくれた。この短いやりとりが初めての会話でした。あのとき自分は、この先何があっても達也選手を応援し続けると心に誓いました」
田中達也と共にアルビレックス新潟へ移籍
怪我の影響もあり2010年以降は思うような結果が残せなかった田中は、2012年に浦和レッズからの退団が発表された。クラブの象徴とも言える選手の退団に、多くのサポーターが別れを惜しんだ。新天地として発表されたのは、当時J1に所属していたアルビレックス新潟だった。浦和レッズへの愛が大きかったひっつーさん夫婦は少し悩んだというが、それでも田中を応援するため新潟についていくと決めた。選手の移籍に伴い、応援するクラブまで変えるサポーターはなかなか珍しい。
「埼玉から高速道路の関越道を利用すれば行けない距離ではないんです。いざ観戦してみると、熱かった浦和のサポーターに対して、新潟のサポーターは温かいなという印象を受けました。ハートに背番号を描いたゲーフラ(ゲートフラッグの略。両手でもつタイプの旗)をすぐに作って、達也選手に浦和からついてきたことをアピールするように掲げてました」
ハートに番号を描くゲーフラは、浦和サポーターが多く掲げているデザインだ。それを見た周りの新潟サポーターは、おそらく浦和から来た人だと気がついていた。ひっつーさん夫婦はどこか遠巻きに見られている感じがしていたという。それでも、新潟サポーターがふたりを温かく迎え入れてくれたきっかけがあった。それは田中が新潟で初ゴールを決めた試合でのこと。周りのサポーターがひっつーさん夫婦に「よかったね!」とたくさん声をかけてくれたのだ。この瞬間、新潟の方々に認めてもらえた気がしてすごく嬉しかったそうだ。ふたりの観戦方法も、新潟にきた当初から少しずつ変わっていった。
「はじめの1、2年目は数ヶ月に一回くらいの頻度で新潟へ観戦に行っていました。でも、達也選手がこの先もし長く在籍するなら、周りのサポーターと仲良くなって楽しまないともったいないと思うようになったんです。それからは、積極的に周りの人に声をかけるようにしました。3年目あたりから年間チケットを買って、毎週のように埼玉から新潟まで通いました。交通費浮かせるために高速道路の深夜割引きを利用し、観光やご当地グルメにもなるべくお金をかけませんでした。そこにお金を使うくらいなら、一試合でも多く試合を観たかったので」
こうして新潟でもサポーターの方々と親睦を深め、仲間が増えたふたりは、新潟色にみるみる染まっていった。
あの日の約束
埼玉の自宅から片道250km以上の道のりを毎週のように通うには、相当な思いの強さが必要だろう。夫婦共働きであり、土日の休日を利用しての観戦だ。いったい何がそこまでひっつーさん夫婦を動かしていたのか。
「やはり2010年のW杯メンバーから落選したときの、浦和の練習場でのやりとりが自分の中で忘れられません。『オレたちがついているぞ』という言葉を、自分は達也選手との約束だと思っているんです。達也選手についていくとあのとき約束したから、自分たちも一緒に新潟に来ました。90分の試合のために横断幕を貼ったりゲーフラを作ったり。暑かろうが寒かろうが、飛び跳ねて声を出して、側から見たら貴重な休日に疲れることをしていると思う。それでも、達也選手が目の前でゴールを決めてくれたら心から嬉しい。自分たちの活動が、選手のほんの数%でも力になれたらいいなと思っています」
ひっつーさんは力強く語り、まひるさんはその言葉に優しく頷いた。最後の引退セレモニーでは、田中が浦和レッズとアルビレックス新潟でつけてきた歴代の背番号が書かれた横断幕が掲げられた。浦和レッズでつけた31、18、11は赤いスプレーで書かれている。新潟のサポーターが考えた粋な計らいだった。
田中はこれから指導者の道を目指すそうだ。また、2005年に大怪我をした直後に生まれた長女の聖愛さんは、なんと今ではアルビレックス新潟レディースに16歳で選手登録されている。偉大な父からバトンを受け継いだ彼女を、ひっつーさん夫婦はこれから応援していきたいという。