疲労困憊で歩いていた仕事の帰り道。息苦しさにマスクを外した途端、とんでもなく甘く優しい香りが嗅覚を直撃した。
こわばる体にまとわりつく緊張と疲労を一瞬にして取り去った香り。濃厚だったのは、たった一瞬。驚いて周りを見渡すと、真横に、もう枯れかけた山茶花の姿がある。
まじまじとその花を見つめ、空気の中にほんのかすかに紛れた香りの粒子を確認しなければ、香りの元がそれだったのかなんてわからないくらい。
毎朝毎晩、同じ道を歩いていた。ここは家の目の前だ。けれど、濃い桃色の花が咲いていたことも、ましてや、もう枯れ始めていることさえも、まったく気づかなかった。
ちょっと、まずいんじゃないの?
一瞬だけ触れあった艶やかな芳香に、茫然とする。
アルバイトをしていた時、朝10時ごろになると、必ず10分ほどの休憩に誘われた。
「え、休憩は昼間の一時間だけでは?」
「まぁ、いいからいいから」
同じくパートタイムで働いていたお姉さまたちはお菓子を用意し、他職員たちを尻目に休憩を取っていた。
最初こそ戸惑ったけど、慣れるといいものだ。たった10分の休憩で、その後、お昼までお腹が空くこともない。お腹が「きゅう」と音を立てて恥ずかしい思いをすることもない。おかげで十分に仕事に集中できた。
だけどその後、職員たちの意向で廃止となってしまった。なんでやねん!
短期のアルバイト契約だったので、その職場とは円満にさようならをした。しかし、その「たった10分の休憩」さえ取ってはいけない社会とは何なのか。
そう首を傾げた時が「社会に流れる時間」と「自分の時間」が違うことに気づいた瞬間だった。まるで、ロンドンと日本の時計が仲良く二つ並ぶように、心の中に二つ時計があったのである。
「フィーカ」や「ヒュッゲ」という、北欧での「休憩時間」を指す言葉があることを、テレビを見て偶然知った。
スウェーデンでは、公務員でも必ず「ヒュッゲ」を取る。甘いものと好きな飲み物で休憩し、「さて」と仕事を再開する。簡単な軽食や甘いシナモンロールなど、「間食」というにはお腹を膨らませそうな食事を取るという。
自分の場合も「ヒュッゲ」をする方が集中力が断然上がる。上記のアルバイト時代の実体験である。
しかし、日本の企業で「ヒュッゲ」を取らせてくれる職場は、なかなかない。余計に休憩したらその分、残業をするのが常だし、我々もそれが「当然」だと考えている。
悶々とした数年を過ごしていたら、突然、とてもいい言葉に出会った。
「世の中に不満があるなら自分を変えろ」
アニメ『攻殻機動隊』の主人公が言うセリフ。心の中で年々膨れ上がる違和感に、終止符をくれた言葉。
「世の中」を変えるのは大変だ。でも「自分」を変えることなら、できる。
ヒュッゲを取り入れるのは不可能な社会人の自分は、休日を「ヒュッゲ化」することにした。「自分を変えろ」ということで。
紅茶が好きなら、最高に好きな紅茶を淹れる。コーヒーが好きなら、豆を挽いて香りを楽しむ時間を確保する。夜にはキャンドルを灯す。のっぺりとした一般的な光ではなく、柔らかい間接照明を増やしていく。穏やかな音楽を聴いて、五感をすべて弛緩できるような時間を設ける。
あとは、散歩に出る。
少し遠い街に足を延ばして、雨の中をぐるぐる歩く。目的のお店が定休日だった。他の店は朝が早すぎてどこも開いていない。お腹がペコペコになって発見したのは、唯一開いていたパン屋のイートイン。たった一人で、広い部屋で過ごす時間のなんとも贅沢なこと。スマホどころか腕時計さえ封印し、てくてく歩きながら雨にけぶる木々を見つめる。もう人の住まわない、朽ちていく家を見つめる時間を過ごす。
こういう時間は特別だ。
日常の中で何かを変えることはできないだろうかと思い、今まで自転車で走っていた通勤の15分を、30分の徒歩に切り替えた。
「社会人」としてはとても痛手。ただでさえ朝が弱いのに早く起きなければいけない。今までだって、余裕があるとわかっていても、心のどこかで焦りを覚えながら自転車で走ってきた。
それをあっさりと塗り替える決意をくれたのは、あの、朽ちかけた山茶花の香りだ。
季節は変わり、花は枯れる。鮮やかさを欠きながらも、賑やかにかさかさと音を立てる落ち葉たち。煙の匂いが風の中に混じったら、秋の暮れが訪れた証拠だ。
雪が降るのはいつだろう。そして桜の蕾が膨らみ弾け、夏の風が瑞々しい若芽をそよがせるのは。
見上げれば、夏の空よりも淡い青色が、綿から羽毛のように形を変えた雲の間から垣間見える。
徒歩通勤になって変わったことは、視点を色々なところに向けられるようになったことだ。
今はもう、あの山茶花は枯れてしまった。花や木々はこの街では目を凝らさなければ見つからない。けれど、それは決して「この街のせい」ではない。
散歩で味わった「違う時間」が恋しくなる。努力をせずとも、自然を感じるアンテナが立っていた。それどころか、自然や風景が「ちょっと見てよ」と声をかけてくれたような気さえする。
けど、ここは「日常」だ。花の香りを、空気の色を、肩の荷を下ろす休憩を意識してやらなければ、走る車窓の向こう側のように「何もなく」終わってしまう。
アラスカに生きた写真家の星野道夫氏が書いたエッセイの一文で、なぜか何度読んでも涙を流してしまう箇所がある。
「ぼくたちが毎日を生きている同じ瞬間、もうひとつの時間が、確実に、ゆったりと流れている。日々の暮らしの中で、心の片隅にそのことを意識できるかどうか、それは、天と地の差ほど大きい」
何もない時間なんて、さっさと過ぎていけばいい時間なんて、存在しない。
はるか遠くではクジラが海面をジャンプしたり、クマが家族でじゃれ合っている。本当は流れていく一秒さえ愛おしく感じなければおかしいのに、生き急ぐあまり、「早く過ぎ去れ」と思って時計を見るのを、もうやめにしよう。
大きな社会の時間は変えられなくても、内側にある「もうひとつの時間」はいくらだって変えられる。
旅に出れば、その土地の時間の流れに合わせることもできるし、休みの日には時計を見ず、スマホを手に取らない、心の中が満たされるような時間を工夫次第で過ごせる。
そのことを忘れないよう、心にメモする。
気を抜くと急ぎ足で歩いてしまう社会の時間から少しだけ視線を外して、自分の中で流れる時間を優先していきたい。
(編集:中村洋太)