情緒不安定は病気じゃない!『躁鬱大学』の生徒になって学んだこと

まずはじめに、筆者は情緒不安定です。

思春期の頃から、気分の波にのまれては溺れ、怒り、泣き、狂い、喜び、自分の喜怒哀楽の激しいことにいつしか悩むようになりました。高校生の頃に「あんたは躁鬱病だ」と親に言われてから、この情緒不安定は心の病気のせいだと嘆いていたのです。

ところが、今から紹介する本書の『躁鬱大学』を読んでから、この荒波は心の病気のせいではなかったことが発覚。躁鬱病じゃなくとも、気分の波に悩まされている多くの人が共感する一冊となっています。

躁鬱大学とははどんなところなのか、一体そこでなにを学んだのか、ひとつひとつ紹介していきます。

目次

講師の坂口恭平さんが躁鬱大学を開校するまで

まずは講師の坂口恭平さんについて紹介。彼は作家でもあり、絵描き、建築家、音楽家など多彩な創作活動に励むアーティストです。

坂口さんは2009年に医師から「躁鬱病」と診断されます。躁状態が来て、鬱状態が来る。そんな気分の荒波と日々闘い続けていました。

しかし、医師は薬を渡すのみで毎度言うことは同じ。

「毎日服薬すること、疲れすぎないようにすること、ちゃんと寝ること」坂口さんはどうにかこの躁鬱病を治したいと思い、躁鬱に関する本を読みまくるが、書いてあることはどれも似たような内容ばかり……。

そんなある日、坂口さんは精神科医の神田橋條治先生の神田橋語録』と出会い、神の後光が差したのです。

鬱が明けたような感覚になり、同じ思いで苦しむ人達にこの言葉を伝えたい!と、『躁鬱大学』を開校することになりました。

それでは坂口さん、ではなく、坂口先生が教えてくれたことを、紹介していきます。

躁鬱病は病気ではなく体質

まず、躁鬱病とはそもそも病気ではなく一種の体質です。

だから躁鬱を直そうとする必要もまずない。だって体質なのだから。躁鬱は言うなれば個性なのです。

講師の坂口先生は、本書の中で躁鬱病と呼ぶことにだんだん違和感を覚え、躁鬱病の人=躁鬱人と呼び始める。うん、なんかしっくりきますね。スーパーサイヤ人みたいでかっこいい。

坂口先生はこう言いました。

「昨日言ってたことと、今日思っていることがまったく違うなんてことも多々あるので、一貫性があるのが普通の人間だと思われているこの世界ではやっていくのがしんどいです。」

この言葉でどれだけの人間が救われたでしょう。むしろ一貫性がないことは武器にさえなるのです。

ちょっとした工夫をするだけで生きやすくなれるのだから。

あっちふらふら、こっちふらふらがよい

躁鬱人は飽きっぽく、興味の範囲が広く好奇心旺盛。最後まで物事をやり通せないことが多い。

なにかのプロフェッショナルになれない人間は一人前ではない。世間からはそう見られがちだが、躁鬱人は多彩な生活送るほうがよいのだ。

「一箇所にいると窒息するためできるだけ移動するのが良い、トム・ソーヤのような生き方をしよう」と坂口先生は言う。

生活を狭くしないこと。やることが増えれば増えるほど心はラクになっていくのです。

「あなたは荒野にいます。焼け野原です。でも、その代わり自分で自分なりの操縦法を見つけて、一人で自立するのです。ルールはいりません、毎日変わるんですから、ルールも毎日変えましょう。」

そして居心地がわるいなぁと感じたら、すぐに立ち去ること。基本が、気分屋気質だから気分屋的生き方をして心を安定させることが大切なんですよ。

「きちんと」、「ちゃんと」から逃げる

「きちんとしなきゃ」「ちゃんとしなきゃ」と思っているときはどんなときでしょう?

こういった「きちんとちゃんと語」が頭に浮かぶときは、大人として、人として〜という言葉も同時に頭にチラついています。しかし実際には人として、じゃなく非躁鬱人としてということを考えてしまっている。

おっと危ない、この思想が自らの首を占めています。だって非躁鬱人の常識は、躁鬱人の非常識なのだから。

躁鬱人は「きちんと」「ちゃんと」が苦手なので、しようと思えば思うほど窮屈になってしまう。

技術を高めれば生きやすくなるのだから、資質に合わない努力はしないこと。

そのためには環境作りが必要ですね。自分に合った方法を探すことがなによりも大事。

自分の気持ちが動いたものにフッと手を出したり、直感や好きという気持ちを頼りに動いていくといいそうです。

急がば回れ、ではなく、急がば自分の道を叩き出せ!

鬱状態のときは反省しないこと

鬱のときは反省のオンパレード。しかし、この反省がよくないのだと坂口さんは言う。

「鬱のときは反省禁止。その反省も躁状態ではすべて忘れてしまい、今後の人生にいっさい反映されないため、反省するだけソン」

矛盾していますが躁鬱人というのは、とにかく覚えているけど、とにかく忘れるらしい。

これは筆者にも恐ろしいほど当てはまっていて、躁状態のときは、鬱だった自分のことを忘れるし、鬱状態のときは躁だった自分のことを忘れてしまいます。

記憶からすっぽりと抜けてしまう。

躁鬱人は躁と鬱それぞれの時間で記憶喪失にあっている

だから躁状態が来れば、自動的に忘れてしまうので反省するだけ損であるということ。ある意味都合が良すぎる気もしますが、これも躁鬱人の性質なんです。

鬱状態でも好奇心は健在…?

鬱状態になるとなんにも興味がなくなってしまう。という風に感じたことはないでしょうか?ところが、ちょっとだけ考え方を変えてみると……

躁状態のときは、なんでもかんでも興味をもって吸収し、動いて、人と会いまくって、と頭も身体も大忙し!一方、鬱状態のときはその真逆。

そんなとき、自分はなんにも興味が生まれないダメ人間だと卑下してしまいがちですが、むしろ興味のあることしか頭に入らないようになっているだけなんです。

坂口先生はこう言いました。

「鬱状態だから頭の回転が鈍くなるのではなく、ただ興味のないことを頭に入れようとは思わないだけだ。むしろ興味があることだけが、頭に入るようになっている。」

鬱状態のときって、ひとつのことをずーーーーっと考えてはいないでしょうか?

つまりそういうことなんです。だから鬱状態の時って意外と自分が思うほど深刻なことではないのかもしれません。

うんこする場所を増やせばいい

坂口先生が行っている『いのっちの電話』では年間2000人ほどからの電話をうけていて、今年で10年目になるそうです。

※『いのっちの電話』とは死にたい人であれば、誰でも電話をかけることができるサービスで、坂口先生自身の電話番号を公表しています。

いのっちの電話:090-8106-4666

これまで2万人の相談を受けた坂口先生は、どんな人間も悩みは同じだという意見にたどりつきました。

人は、人がどんな悩みを抱えているか知らない。だから不安になる。

しかし、自分と同じ悩みを持っている人を見つけることができたら、それだけでラクになれそうですよね。

「人類皆、人からどう見られているかということだけを悩んでいる」と坂口先生は言います。そして人からどう見られるかというのは生きていれば、誰もが気にすることであると。

つまり生理現象、うんこやおしっこと一緒なんです。

うんこやおしっこはトイレという吐き出し場所があるが、悩みには吐き出せる場所がない。だからこそ坂口先生は『いのっちの電話』を作ったとも言える。

「人からどう見られているか気にしていることを吐き出すトイレ」が全国にたくさん増えれば、悩みをみんなと共有できれば、自殺者はぐんと減るのかもしれません。

躁鬱大学を卒業:まとめ

気分の波は大なり小なり皆さんあると思いますが、荒波に時々のまれそうになったり、溺れてしまう人っていると思うんです。

躁状態のときは、スーパー無双モードで周りが見えなくなっているけど、見えないからこそなんでもできちゃうこともあります。マリオがスターを取ったときのアレ状態。

しかし困るのは鬱状態のときです。「アレ?あの時の自分はなんだったんだ?」というくらいひどく落ち込んでしまったり、自分を責めてしまったり……。

躁鬱大学では、そんな厄介な「躁」と「鬱」の上手な距離の取り方や、躁鬱人を武器に生きていく術を知ることができます。

坂口さんが先生となってわたしたちの心に寄り添いながら、共に頼もしく戦ってくれる。

それだけで心強く、お守りのような一冊になります。筆者はこの本に出会えて心がふわっと軽くなりました。