「オメラスから歩み去る人々」という短編小説を読んだ。
ジブリでも映画化されたゲド戦記を書いたアーシュラ・K・ル=グウィンの作品なのだが、ディストピアというか、この世界で起こっていることをわかりやすく物語にしている。
話の内容はこんな感じだ。
オメラスというこの世の楽園のような国があった。美しい街並み、豊かな自然に囲まれたその国で人々は幸せに過ごしていた。夏の祝祭が訪れると街の中には、着飾った住人たちが音楽を奏でながら行列を作り、踊りながら祭りを楽しむ。
オメラスに王はいないし、奴隷もいない。君主制や奴隷制は排されているだけではなく、株式市場も、広告も、秘密警察も、爆弾もない。彼らはなに不自由なく毎日幸福な生活を送っているが、決して単純ではなく、私たち同様に複雑な人間である。
オメラスはまさに理想のような国なのだが、街の地下には一つの牢屋があった。窓はなく、わずかな光だけが湿ったその小部屋に差し込んでいる。その牢屋には男の子とも女の子とも見分けがつかない、年は六つぐらいの子どもが閉じ込められている。長い間閉じ込められているので言葉を発することも出来なくなり、筋肉はふくらはぎがないほどに痩せ細っている。その子はすっ裸で、しょっちゅう自分の排泄物の上に座るので、尻や太腿にはいちめんに腫れ物ができて、膿みただれていた。
そしてオメラスの住人はその子が牢屋に閉じ込められていることをみんな知っているのである。
これは厳格で絶対的な条件で、オメラスの繁栄は牢屋の子どもの犠牲の上に成り立っているのである。住人たちの幸せ、健康、豊かな生活は、すべてこのひとりの子どものおぞましい不幸の上に成り立っていることを住人はたちは理解していた。
この事実は、オメラスの子どもたちが八歳から十二歳のあいだに、理解できそうな頃合いを見計らって、大人の口から説明をされる。そんなわけで牢屋に子どもを見に来る客は時々それが何度目かの大人も混じっているが、大抵はその年頃の少年少女である。しかしいくら念入りに事情を説明されていても、年若い見物人たちは例外なくそこに見たものをに衝撃を受け、気分が悪くなる。そして怒りと憤りを感じるのであった。
「その子のためになにかしてやりたい、こんな不潔なところから出して、体を洗ってやり、お腹いっぱい食べさせてあげることは出来ないだろうか」と考えるが、もしそうしたら最後、オメラスの繁栄と喜びはすべて滅び去ってしまう。繰り返しになるが【牢屋の子ども】はオメラスの住人が豊かな生活を送るための絶対的な条件なのである。そのことも大人たちに教えられているので、子どもたち無力さを感じ打ちひしがれるのであった。
はじめて牢屋の子どもを見て、この恐ろしいパラドックスに直面したとき、子どもはたちは泣きじゃくりながら、あるいは涙も出ぬほどに怒りに身を震わせて家に帰ることが多い。彼らは何週間も、時には何年も、そのことを思い悩む。しかし時が経つにつれて、気づきはじめる。
あの子がたとえ解放されたとしても、たいして自由を謳歌できるわけではないことに。
ささやかでおぼろげな暖かさと食べ物の快楽、それはあるに違いないが、せいぜいその程度ではないか。あの子はあまりにも長い間恐怖のなかに身を置きすぎてしまった、もう救いようがないのではないか。この恐ろしい現実に気づき、そしてそれを受け入れ始めたとき、過酷な不当さを憤った彼らの涙は乾いてゆく。
そして時々、牢屋の子どもを見に行った少年少女の中に、あるいはもっと年をとった大人の男女の中にも一日二日黙り込んだのち、ふいと家を出る人がいる。こうした人たちはオメラスの美しい門をくぐり抜け、都の外に出る。田園を抜け、なおも歩み止めない。彼らはオメラスを後にして、暗闇に中へと歩き続け、そして二度と帰ってこない。彼らがおもむく土地は、私たちの大半にとって、幸福の都よりもなお想像にかたい土地だ。
しかし、彼らはみずから行先を心得ているらしいのだ。彼らオメラスから歩み去る人びとは。
こんな話である。
僕も若い頃、世界で起こっている不条理な出来事を知りとても衝撃を受けた経験がある。それこそ怒りの感情が沸いたし、かといって自分にはどうすることも出来ないので無力感にも襲われた。しかし年を取るごとにその怒りもだんだんと薄れて、物語に出てくる事実を知った少年少女たちのように、涙も乾いたのだった。
「この世界をなんとかしなくてはいけない!」というあの頃抱いた強い気持ちは薄まったのだが、とはいえ心の中では自分の住むこの日本には良くなって欲しいという気持ちは持ち続けている。
日本も世界の問題を抱える国と同様に、解決しなくてはいけないことや、取り組んでいかなくてはいけないことはたくさんあると思う。「昔に比べたら随分マシになったんじゃないか?」と言う人もいるがクローズアップ現代を見ているとそうは思えない。(クロ現はマジでずーんとした気持ちになりますよね)
社会が抱える問題を一つひとつ上げたらキリがないけど、困っている人はたくさんいると思う。
僕が怖いと思うことは、今の快適に過ごしているこの生活が誰かの犠牲の上に成り立っているのではないかということだ。自分が直接的に加害をしていなくても、参加しているこの社会全体がそういう仕組になっているんじゃないかとふと考えることがある。
オメラスの話は、トロッコ問題とよく似ている。
「5人の命を助けるためには、1人の人間の命を犠牲にしてもいいのではないか」という問題である。【最大多数の最大幸福】とも言われているが、大多数のみんなの幸せの影には少数派の犠牲があるというわけだ。トロッコ問題はあくまでも例えであって、生死に直結するような選別をされることはなかなかないとは思う。しかし多数派と少数派に分けられたとき、マイノリティー側の人たちの権利が脅かされているということはよくあることだと思う。多くの人はいつでも大多数側だ。なので相当意識をしていないと少数派に目を向けることもない。自分には関係ないし、特に不便もしていないからだ。そして僕も例外ではない。社会の不条理に対してなんらかのアクションを起こしているわけではないし、日々の生活の中で積極的に困っている人を手助けしているか?想像力を働かせているのか?と聞かれたら「はい!してます!」と即答できる自信はない。
しかし僕はこの世の中がもっと困っている人や、少数派の人たちに優しい世界になって欲しいと思っている。今の僕は余裕があり、そしてこんな文章を書いているわけなのだが、何かにおいてはマイノリティーの立場になる可能性だって十分にあることだし、この先々の人生の中で誰かにお世話になることや、国からの支援を受けなくてはいけなくなる時だってあると思う。自力で生きていきたいと思っているけど、ままならない事情が降り掛かることもあるはずだ。なので未来の自分のことでもある。
この国には困っている人がたくさんいると思う、それを見てみぬフリをするのではなく、その人達に寄り添うような国になって欲しいし、助けを求めている人や、まだ権利が認められていない人たちに、ちゃんと向き合って、より良い生活が送れるようになって欲しい。
『オメラスから歩み去る人々』はどんなことを思いながら、国を出たのだろうか。
選挙の前日にこんなことを考えていた。
日本がどういう方向に進んでいくのか見守りたいと思う。