「不思議」はいつも「ここ」で感じる

エッセイ_中田

 本を読んでいると、ある文章が目にとまった。

今の私は、様々な偶然性の奇跡的な組み合わせによって成立しています。私という個性は、単純な因果関係では説明できない天文学的な縁起によって構成されています。私は存在しなかったかもしれないのに、存在していること。私は今の私ではなかったかもしれないのに、今の私であること。この偶然が持つ否定性と奇跡の感覚は、超越的存在の認識へと至らざるを得ません。
(引用:『思いがけず利他』中島岳志 著/ミシマ社)

それは、『「いき」の構造』などの著作をもつ哲学者・九鬼周造が考察した「偶然性」についてふれた文章だった。

ちなみに文中の「偶然が持つ否定性」というのは、例えばこういうことだ。私の両親がもし出会っていなかったら、そもそも祖父と祖母が……と考え始めると、自分の存在は奇跡的な偶然の連鎖によって、いまここに「ある」ことがわかる。この偶然がほんの少しずれていたら、自分は存在さえしていない。このように「偶然性」を突き詰めると、私は「いなかったかもしれない」という否定を含んだ存在であることに向き合わざるを得ない。これが「偶然が持つ否定性」である。

つまり、偶然の連鎖によって存在している「いま」は、常に無数の「そうではなかったいま」と隣り合わせということ。それゆえに「偶然性」を想うと、私たちは奇跡的な確率の末の「いま」を生きていることを知り、ただただ驚くほかない。本書では九鬼の言葉を引用していた。

偶然性という「驚異」は、「形而上的情緒」である。

ここでいう「形而上」が意味するのは、超越的存在であり、いわば神の存在のことだそうだ。人は自分の理解を越えた「偶然性」に出会うとただ「はっ」と驚き、自分を超えた存在に導かれているような感覚になる。それを本書は「形而上的情緒」と表現する。

前置きが長くなってしまったが、「形而上的情緒」という言葉に出会ったときに僕の頭に最初に浮かんできたのは「不思議」という言葉だった。「偶然性に驚く」というのは、「不思議を感じる」と似ているのかもしれない。そうやって、僕には少し難しい内容を咀嚼していると、ふいに頭の奥から聞こえてきた片言の日本語があった。

「もっと深いところで、不思議を感じるようになるよ」

その瞬間、僕の心は9年前のスイスへ飛んでいった。

9年前。僕は大学を休学して世界一周の旅に出ていた。

日本を出て5ヶ月が過ぎたある日、僕はスイスの小さな宿場町に来ていた。そこは、アイガー、メンヒ、ユングフラウというオーバーラント三山とよばれる4千メートル級の山々に囲まれた小さな宿場町だった。駅に着いた頃には、すでに日は落ちかけていた記憶がある。出発したときより少し汚れたバックパックを背負った僕は、今晩身を休める宿を探して石畳の上を歩いた。

やっと見つけた裏路地のゲストハウスには、山を目当てに世界中の旅人が集まっていた。ロビーには人がたくさんいて賑やかに談笑していた。少し疲れていた僕は、夕食を済ませたら今日は早く寝ようとキッチンに向かった。旅人たちとの会話もそこそこに、パスタを茹で、共有スペースにあった小さなテーブルについた。するとひとりの男性が、「一緒に食べないかい?」と笑みを浮かべながら向かいに腰をおろした。それがキムさんとの出会いだった。

キムさんは60歳くらいの韓国人。実際の年齢はもう少し上だったのかもしれない。穏やかな表情の奥にはつらつとしたエネルギーを感じ、若く見えていた可能性もある。キムさんはバックパッカーの大先輩だった。1年間チベットを旅したとか、今度はモンゴルに数ヶ月滞在するとか、口を開けば出てくるのは生粋の旅人エピソード。最初は「今日は早く寝たかったな……」と思っていたのだが、いつしか片言の日本語で語られるキムさんの冒険譚を夢中で聞いていた。

そのとき、どんな会話の流れだったか思い出せない。
夜も更けてきた時間、ふと僕は「人生って不思議ですね」と呟いた。

旅を続けていると「不思議」としか表現できない瞬間があった。例えば、人との出会い。Aさんと出会ったためにBさんとの出会いがあり、その連続の先に思いもよらない場所に立っている自分に気づいたとき、僕はただ「不思議」を感じて驚くほかなかった。さらに、そこで出会ったCさんは実はAさんの知り合いだった、みたいなこともあった。出会いが新しい出会いに繋がり、予定調和的ではない風景に邂逅するとき、どうにも説明の難しい感覚に全身が包まれた。いまの僕ならそれを「形而上的情緒」と表現するかもしれないが、その言葉と出会うのはもう少し先の話だ。当時の僕はその感覚を「人生って不思議ですね」というストレートな言葉でキムさんに伝えてみたくなったのだ。

それを聞いたキムさんは少し微笑んで頷いた。
そして、右の掌を自身の胸にそっと当てて、

「そうだね。でもこの先、もっと『ここ』の深いところで不思議を感じるようになるよ」

と言った。

そして間髪入れずに「人生って不思議なものですね~」と片言の日本語で美空ひばりの歌のワンフレーズを歌っておどけた。僕は笑った。

でも胸に手を当てたキムさんの姿を忘れられず、このときの会話はその後もずっと僕の中に残り続けた。キムさんはどんな「不思議」と出会ってきたのだろうか。それは今や知る由もないが、胸のもっと奥深くで「不思議」を感じられる生き方をすることが、この夜から僕の人生の指針のひとつになった。当時の僕にとっては、「不思議」は全身を通りすぎる刹那の感覚に近く、胸の奥に留まり続ける感覚ではなかったように思う。

9年前のそんな会話を思い出しながら、僕は本を閉じた。そしてお湯を沸かして、キッチンでお茶をすすった。床がひんやりとする師走の朝。窓からは那須の山々がくっきりと見えた。ふと「去年の12月はまだ東京にいたんだよなぁ」と、都内のアパートから見えていた景色を思い出す。今年の春、夫婦で栃木県の那須に移住したのだ。世界一周の旅を終えた直後に妻と出会い、仙台で3年間過ごしたのちに、一緒に上京して5年間東京で暮らしてきた。これまで関わってきた人たちの顔を順番に浮かべ、思いを馳せていると、それなりに遠くまで歩いてきたことを実感する。そして、予想もしていなかった場所にいま立っていることに、不意に「はっ」とする。

あのときあの場所に行かなかったら、あのときあの言葉を選ばなかったら、あのときあの選択をしなかったら、あのとき……。

時の流れを感じさせる冬空を眺めていたら、そんな「もしも」が心を通り過ぎていった。何かひとつでも違ったら、全てが違っていたお話なのだ。その偶然性を考えると、お茶を飲んでいる僕が、隣の部屋で眠る妻が、そもそも存在していなかった可能性に気づかされる。今日の生活のなかに「不思議」が満ちている。「不思議」はキッチンの静寂に息づいている。食卓の電球の下で瞬いている。交わされる他愛もない会話のなかに隠れている。

何かひとつ違ったら、「いま」は「そうではなかったいま」だったのだ。

2021年が終わる。
僕は胸の数センチ奥の方で、確かに「不思議」を感じている。
感じると同時に、ただ静かに驚嘆している。

もしキムさんと再会できる日があるなら、もう一度「人生って不思議ですね」と言おう。きっとまた笑って頷いてくれるはずだ。

(編集:中村洋太)