妻夫木聡を好きなのはおばさんと言われた

長瀬さんアイキャッチ

30歳を迎えた頃だったか。酒の席で、学生時代の同級生である男友達に「芸能人だったら誰が好き?」と聞かれたので、「妻夫木聡」と答えた。すると彼はニヤリと笑い、「あ~、おばさんだわ」と言った。一瞬、意味が分からなかった。オバサン? チュラサン? チョナン・カン? 混乱する脳内でKiroroの歌うサランヘヨが聴こえたが、すぐに正気を取り戻し、「え、別におばさんじゃないでしょ」と反論すると、「いや、妻夫木聡を真っ先に挙げるのはもうおばさん。若い子なら福士蒼汰とかだよ。認めないと! 俺たちおじさん、おばさんなんだよ」と言う。

カチンである。完全にカチンである。鼻の穴にもろきゅう突っ込んでやろうか。味噌をつけた方が上だぞ。

確かに好きな芸能人というのは世代を表す指標になり得るかもしれないが、よって即ち「おばさん」というのはどうにも納得し難い。その昔、彼はホットペッパーの冊子に載っていた田中美保を見て可愛い可愛いと夢中だったが、もし彼が今でも田中美保を好きだとしても、私は「おじさん」だなんて言わない。決して言わない。もしかすると今の若い世代は紙のホットペッパーを知らないのではと一瞬よぎったが、気にしない。

徹底抗戦だ。もろきゅうをいつでも手に取れるよう視界に入れつつ、反論を続けるべく身を乗り出したところでハッとした。「おばさん」と言われた時の返しとして「おばさんじゃない」は極めて悪手である。否定すればするほど形勢が悪くなるような気がしてならない。敗色濃厚。だいたい酔っぱらったアラサーとアラサーが「おばさんだ」「おばさんじゃない」とマジ口論している姿というのは傍から見てどうか。あまりにも虚しくはないか。

戦意喪失した私は「フゥン!」と鼻を鳴らし適当に話を終わらせ、もろきゅうを口の中に放り込んでビールと共に流し込んだ。彼は学生時代から苦楽を共にしてきたBest Friendである。くだらない言い争いで酒を不味くすることもない。時には急ぎすぎて見失うこともあるよ仕方ない。

その後みんなでカラオケに行き、私と彼は仲良くWON’T BE LONG(EXILE&倖田來未)をデュエットして手打ちとなった。

考えてみれば、彼とは感覚が違って当然かもしれない。20代前半で結婚した彼には、既に可愛い子どもが二人。数年前に立派なマイホームも建てた。仕事は教育関係で、日々中高生に囲まれながらバリバリ働いている。そのような環境にいれば、自分はもうおじさんだと思い知らされる機会は多いのかもしれない。一方、当時まだ独身で、出世もせず後輩もおらず年配者が多い部署内で長いことヤングとして扱われ続けていた私は、自分のことをおばさんだとは思えなかった。もう若者ではないけれど、おばさんというのもしっくり来ない。もうすぐ33歳を迎える今もまだ同じような感覚だ。

 

「おばさん」という言葉の取り扱いについては、昔から思うところがあった。

古くは大学生の頃。新入生が入って来るたび、同期の友人は「うわ~肌がピチピチだ。若い!」と言い、歓迎会で「私なんてもうおばさんだからさ」とカシオレを飲みながら新入生に向かって嘆いていた。確かに新しい環境でドギマギする新入生たちは初々しく見えたが、二十歳やそこらの我々がおばさんを自称するのは無理があるというものである。

その友人は本当に自分をおばさんだと思っていたわけではなく、ちょっと大人を気取りたかっただけなのだと思う。その気持ちは私にもよくわかる。ただ、私はそれをおばさんという自虐で表現することに危機感を覚えた。なぜなら、本当におばさんになる日がいつか必ず来るからである。おばさんという自虐が背伸びの自虐から諦めの自虐に切り替わる、その瞬間を思うと得体の知れない恐ろしさがあった。だから私はおばさんになるまで、いや、おばさんになったとしても、決して自虐的に自分をおばさんと呼ぶことはしない。そう誓ったのである。結果、私の大人ぶりたい気持ちは酒を嗜むことにより表現され、現在に至るまでの間とても大人とは思えぬ数々の酔余の蛮行を引き起こすことになるのはまた別の話である。

 

私は今の自分を結構気に入っている。20代の頃より自分の年齢にしっくり来ているし、外見的にもニキビは出なくなったし剛毛だった髪も落ち着いたし、個性を出そうとして妙なヘアバンドをしたり、やたらリアルな虫のブローチをつけたりしていたあの頃より絶対今の方がイケてる。年相応に楽しんでいる。おばさんになりたくないというより、「おばさんだから」という自虐をしたくないのである。

しかしこの歳になると、自分をおばさんだと認めないのはみっともないという雰囲気を感じることがある。本当は思っていないのに、空気を読んで「おばさんだから」と自虐してしまう人もいるのではないだろうか。そしてそれは、少なからず自分をすり減らすことになるのではないだろうか。

もちろん「おじさん」も同じなのだが、不思議なことに「おじさん」と「おばさん」を比べると、「おばさん」の方がよりネガティブな使われ方をしているような気がしている。

例えば、「かっこいいおじさんになろう」というような触れ込みはよく耳にするし、いい歳の取り方をしている人を「イケオジ」なんて言ったりするが、なぜか「きれいなおばさんになろう」「可愛いおばさんになろう」という文言はあまり聞かない。「イケオバ」も聞かない。「きれい」「可愛い」「イケてる」のなら「おばさん」ではない、とされている節がある。おばさん世代のきれいな人のことを「あの人はおばさんじゃない!」などと言ったりする。美魔女という言葉が生まれたのも「おばさん」を使わずに表現する需要があったためであろう。

それだけ「おばさん」という響きには破壊力があるのだ。年代を表す以上のネガティブな意味合いを纏っている。普通に歳を取れば誰もがおばさんになるというのに、そんなのあんまりではないか。「目指せカワオバ!」と言える世界になれば、おばさんという言葉をもっとポジティブに使えるようになるかもしれない。

 

もう一つ、「何歳からがおじさん?おばさん?」というようなアンケートを時折見かけるが、これも妙だなと思う。中学生にとって30歳はおばさんに見えるだろうし、60歳にとって30歳はまだまだ若者に見えるはずだ。しかも実際は年齢だけでなく、見た目の印象や言動も加味される。人によって感じ方はそれぞれなのでとても一概には言えるものではない。よく「おしぼりで顔を拭くのはおじさん」という説があるが、私の周りの人達は若い頃からガンガン拭いていたので全くピンと来ない。私も化粧をしていなければ拭きたい。

そもそも何歳からおじさんだとか、こうなったらおばさんだとか、定義することに意味などあるのだろうか。今はどの世代も生き方が多様化しており、昔と同じ感覚で枠にはめることは難しい。不確かな定義を追究しても、誰かしらを傷つけるだけではないだろうか。

私という人間も、見る人によっておばさんだったり、若者だったりするに違いない。だから近所で野球をしている子どもたちのボールが転がってきて、「おばさん、そのボール投げて~!」などと言われた際には全力で投げ返し、おばさんとしての立場を全うするつもりである。そういう機会が増えるうちに自然と、自虐ではなく普通に、おばさんを自称できるようになっていく気がする。アンケートの結果ではなく、自分のペースでおばさんになりたいのである。

 

「俺たちおじさん、おばさんなんだよ。」

「そうだよね」と言ってしまうのも一つの手だったのかもしれない。でも、おばさんとして振る舞う自由もあるし、そうしない自由もある。ましてや認めろと言われる筋合いなどない。実際、自分をおばさんだと認めたところで何になるのだろう。おばさんだろうと何だろうとタピオカは吸えるし、チーズハットグは伸びる。

いつか勝手におばさんになるから、どうかそれまで笑って見ていて欲しい。落ち着いたら、また一緒に飲みに行こう。二次会はカラオケに行って、気分上々↑↑でアゲ♂アゲ♂EVERY☆騎士しよう。

「私のおばさんは、私が決める。」

誰が何と言おうと妻夫木聡が好きだし、いくつになってもビールは美味い。適度に休肝日をとりながら、堂々と大人エレベーターを昇っていく所存である。